コラム
- 職場のハラスメント
「感謝」と「ポジティブ」がハラスメントを覆い隠す。悪意なき抑圧の背景と対策【前編】
1.組織を覆う「やりがい」と「ストレス」の非対称性
組織の「外向きの顔」と「内側の実態」の乖離は、看過できない戦略的リスクであると思います。
例えば、企業が顧客満足や社会貢献を掲げ「やりがい」を強調する陰で、従業員の心身は深刻なダメージを負っているケースもあります。
私たちが働く中で感じる「やりがい(光)」は、実際のところ『お客様からの感謝』や『社会への貢献』といった「組織の外」から届くことが多いものです。
一方で、心を削る「ストレス(闇)」は、『職場の人間関係』や『執拗なマイクロマネジメント』といった、「組織の内側」の閉鎖的な人間関係から発生することがあるのも、また事実です。
この「外と内の激しいギャップ」という非対称性は、働く人に心理的不快感を生み出すことが少なくありません。「仕事は素晴らしいはずなのに、なぜ職場はこんなにつらいのか」という矛盾に直面したとき、人は自らを守るために、脳が誤ったルートで矛盾を解決しようとすることがあります。それが、『自己欺瞞(じこぎまん)*』です。「大好きな仕事や、感謝されるやりがいをあたかも人質に取られてしまった」かのような心境から、自らハラスメントを正当化して耐え忍んでしまう『罠』とも言えるかもしれません。
*自己欺瞞「自分の本当の気持ちや客観的な事実から無意識に目を背け、自分にとって都合のよい『別の理由』を無理やり自分に信じ込ませる(=自分自身をだます)心理プロセス」
独立行政法人労働政策研究・研修機構(JILPT)の調査が示すように、ハラスメントの被害は、円形脱毛症や慢性的な嘔吐、さらには脳出血といった、誰の目にも明らかな『心身の破壊(生物学的コスト)』として表れます。
本来であれば、これほど深刻な身体の危険信号(サイン)を見過ごせるはずはありません。それなのに、お客様からの「ありがとう」という光が強ければ強いほど、組織の中では、「社会への貢献」や「プロとしての使命感」といった美しいスローガンの陰に、この耐え難いストレスや心身の悲鳴さえもが、すっぽりと覆い隠されてしまうのです。
「素晴らしい仕事のためなら、多少の苦痛には耐えるべきだ」という空気が職場を支配したとき、「おかしなことにおかしいと声を上げる」という自浄作用は組織から失われ、職場の心理的安全性が壊れていくことになりかねません。
職場の中では、誰も悪意を持たないまま、その大義名分の元で過酷な業務負荷や顧客対応のストレスすらも美化されるケースもあります。働く人の中には「自分がもっと頑張らなければ」と自ら心身を削り、周囲も違和感を感じながらも、看過する。こうして、誰もが善意の共犯者となり、働く人の純粋な情熱やエネルギーが失われていくという、水面下での消耗が起きていきます。
職場で謳われる大義が、いかにして働く個人の目を曇らせ、組織を支配する「聖域化された搾取」へと変貌していくのか。その具体的な心理的・集団的なからくり(機序)を紐解いてみます。
2. 心理的・集団的機序:情熱搾取を正当化する「聖域化」の罠
このハラスメントや歪んだ同調圧力が表に出てこない背景には、キムらが提唱した「情熱搾取の正当化(Legitimization of passion exploitation)」と呼ばれる集団心理が深く関わっています。
これは、「素晴らしい理念や正しいバリュー(情熱・ポジティブ・感謝など)を掲げているのだから、これに染まることが正であり、多少の息苦しさは受け入れて当然だ」という、無意識の認知の歪みです。
一般的には、以下のような特徴を持つ職場において、このバイアスは強力に作用すると考えられています。
・「お客様の笑顔」に直接触れる仕事
・医療・福祉・教育など、社会的な意義や使命感が求められる仕事
・「夢を叶える仕事」として人気のあるクリエイティブ職やスポーツ業界 など
例えば、ある企業では「常にポジティブで明朗闊達であること」を素晴らしいバリュー(行動指針)として掲げていました。その結果、職場では「偏り」が発生することになります。
状況の問題点を客観的に見つけ出し、その解決に集中する「回復思考」を持つ人や、あえて自分の活動を誇示しない誠実な行動傾向を持つ人たちが、「前向きさが足りない」と隅に追いやられ、個人のチャレンジの問題として扱われていたのです。やがて本人も自分の能力や努力の不足と自己評価をし、会議でも徐々に発言できなくなっていったのです。
対して、明朗闊達な人々は自分たちのスタイルをさらに強化していきました。そうでない人々は居場所を失って静かに退職していく現象が続き、違和感を抱いている周囲の人間も、当たり障りのない活動に終始し、看過・傍観していました。
本来であれば、働く人の「熱意や善意」から生まれたはずのバリュー(集団規範)が、いつの間にかメンバーを縛り、「この規範(正義)に馴染めない側が悪いのだ」と、それに合わない多様な人材を排除することにつながってしまう。そして、皮肉にもそれが、組織の中に潜む歪みや息苦しさを覆い隠す『盾(言い訳)』に化けていった例です。
私たちが忘れてはならないことは、それを見ている同僚や、強いストレスを感じている本人さえも、「このポジティブな理念についていけない自分に能力がないのだ」のように、自己欺瞞に陥り、SOSの声を自ら封じ込めてしまうのだ、ということではないでしょうか。これが、情熱を搾り取る悪循環の始まりです。
こうした状態を「聖域化による搾取」と捉えて、その進行を3つのステップで整理してみました。
- ステップ1:使命感の絶対視
「組織のミッション」や「顧客のからの感謝」を最優先あるいは前提と考え、個人の尊厳や権利を二次的なものとして矮小化する。 - ステップ2:苦痛の美徳化(成長の神話)
こうした最優先や前提からくる圧力を「プロらしさ」「できる人」「高みを目指す大事なこと」等と読み替え、理不尽を耐えることに道徳的価値を付与する。 - ステップ3:異論の排除と集団的沈黙
不満を漏らす者を「情熱が足りない」「やる気が見られない」「主体性に欠けている」と個人の問題と捉えられ、非難する空気が醸成され、排除と傍観が定着する。
こうした自己欺瞞は、個人の内面を蝕むだけでなく、自己の能力認識を歪め、働く人の自己効力感を奪っていきます。
3. 能力を「奪う」錯覚の解剖:自己効力感の崩壊と実証データ
このように、一見すると悪意が存在しない「美名に隠された抑圧(ハラスメント)」は、単に働く人の居心地を悪くするだけにとどまりません。
実は、組織が本来持っている「実力(能力)」そのものを、内側から根こそぎ奪い去ってしまうかのような強い力を持っています。
なぜなら、周囲からの「もっと前向きに」「なぜバリューを体現できないのか」といった執拗な同調圧力や否定、あるいは一挙手一投足を監視するようなマイクロマネジメント(過剰な干渉)は、従業員の心から「自分は仕事ができる」という確信(自己効力感)を、根底から壊してしまいかねないからです。
自信を奪われた社員は、本来持っているはずの能力を全く発揮できなくなり、やがて「自分は能力が足りない無能な人間なのだ」と思い込むようになるならば、これこそが、善意の抑圧が作り出す「能力不足の錯覚」の正体だと思います。
そして、この「自分は無能だ」という錯覚が、単なる個人の悩みにとどまらず、じわりじわりと組織に致命的なダメージを与えている、それが複数のデータから立体的に浮かび上がってきます。
まず、日本ハラスメントリスク管理協会(2026年)の自主調査によれば、ハラスメントのある環境と健全な環境では、従業員の自己評価に以下のような「40ポイント以上もの圧倒的な乖離」が生じています。
【ハラスメントの有無における、従業員の「能力不足感」の比較】
・ハラスメントのある環境(被害自覚あり):61.7% が「仕事が能力を超えている」と回答
・ハラスメントのない健全な環境:約20.0% が同様に回答
健全な職場では「自分にはこの仕事ができる」と8割近くの人が自信を持っているのに対し、ハラスメント(抑圧)が常態化している職場では、実に6割以上の人が「自分は能力不足だ」と自分を責めているのです。
実力が足りないのではなく、職場環境の歪みが、彼らに「無能の錯覚」を強制的に植え付けているのではないか、と読み取れます。
さらに、この心理的な「追い詰め」は、深刻な心身の破壊をもたらします。
独立行政法人労働政策研究・研修機構(JILPT,2015)の調査によれば、いじめ・嫌がらせのあっせん事案において、被害者の35.2%がうつ病やPTSD、自律神経失調症といった何らかのメンタルヘルス不調を来しており、中には円形脱毛症、下痢・嘔吐、脳出血といった深刻な身体症状を訴える者も確認されています。
このようにメンバーが心身を病んでいく組織は、当然ながら高い「離職リスク」に直面します。
実際に、人事・労務担当者500名以上を対象とした株式会社Smart相談室の調査(2023年)によると、従業員の離職を問題視している担当者のうち、実に56.0%が、離職の直接の原因は「メンタルなどの不調」であると回答しており、これが金銭やキャリアの問題を抑えて離職理由のトップとなっています。
これらのデータは、ハラスメント対策やバリューの押し付けによる歪みの是正が決して単なる「社内の人間関係のトラブル解決」ではなく、人的資本における致命的な「能力喪失」と「優秀な人材の流出」を防ぐための、最優先の経営課題であるということを、物語っているのではないでしょうか。
では、この破壊された自己効力感(自信)を再び取り戻し、従業員が本来のパフォーマンスを発揮できる「安全な職場」を再構築するにはどうすればよいのでしょうか。その具体的な処方箋は、次回のコラムで紹介します。
参考文献
・一般社団法人日本ハラスメントリスク管理協会 (2026),『職場のハラスメントと個人・組織の諸相関調査』
*ダウンロードはこちら https://share.hsforms.com/1uuO7AneUQqW2yRFEvqsFrQsxma3
・株式会社Smart相談室(2023),「相談窓口の活用に関する実態調査:人事・労務担当者500名への意識調査」
・厚生労働省 第2回 職場のパワーハラスメント防止対策についての検討会 配布資料(資料3)P4
・独立行政法人 労働政策研究・研修機構 JILPT資料シリーズNo.154(2015年6月)職場のいじめ・嫌がらせ、パワーハラスメントの実態 ―個別労働紛争解決制度における2011年度のあっせん事案を対象に―
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【執筆者】
相談員養成講座 特任講師 平澤 知穂
【プロフィール】
2000年にコーチとして独⽴、研修講師として活動開始。 2つの⼤学で通算14年間⼤学⾮常勤講師を務める。 企業や⾃治体、医療法⼈などにおいてハラスメント防⽌の活動を⾏い、2022年には個⼈のハラスメント年間相談対応が 600件を超えた。厚⽣労働省の設置するハラスメント相談窓⼝や、法務省の刑事施設における矯正教育関連プログラムの ファシリテーターを経験している。
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