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ハラスメントが奪う「できる自信」 〜認知の歪みが生む「能力不足」の錯覚について~
今日、職場におけるハラスメントは単なる「人間関係のトラブル」という枠組みを超え、企業の持続可能性を左右する重大な「経営リスク」へと変質しています。
多くの組織では、深刻な事案が発生してから対応する「事後対処」が主流になるケースも多く、それでは遅すぎることも指摘されています。
なぜなら、ハラスメントの本質的な恐ろしさは、従業員の自己評価を根底から歪め、組織全体のパフォーマンスを静かに、しかし確実に破壊していく点にあるからです。
特に人事・法務担当者が注目すべきは、ハラスメントが「仕事の遂行能力」に対する主観的な認識を著しく低下させるという事実です。
今回のコラムの核心となるテーゼは、「ハラスメントの被害認識がある人ほど、客観的な能力の有無にかかわらず、自分の仕事が能力を超えていると感じる」という認知の歪みです。
この「能力不足」という錯覚が、いかにして離職や生産性低下に直結しているのか。
感情論ではなく、客観的なデータと心理的メカニズムに基づいて、組織が直面している「人的資本リスク」を考えてみます。
データの可視化から観るハラスメント被害と「能力不足」の錯覚が生む負の相関
自己効力感の喪失と「虐待的監督」
ハラスメントが従業員の心理に与える影響について、当協会の「職場のハラスメントと個人・組織の諸相関調査(2026年)」によると、ハラスメント被害の実態と業務負荷感の間には極めて強い相関が認められます。
業務負荷認識への影響
調査結果において、ハラスメントの被害認識がある層(「よくあてはまる」「まああてはまる」と回答した層)では、その約6割が「自分の仕事は能力を超えた内容である」と回答しています。ハラスメントのない層における同回答が約2割に留まることと比較するとその差は歴然であり、ハラスメントが業務遂行に対する自信を直接的に奪っている実態が浮かび上がります。(スライド12)
パフォーマンス低下の物理的側面
また、ハラスメント被害と「心身の疲弊」も切り離せません。「疲れ(心身の疲弊)」を強く感じている層の37.5%にハラスメントの被害認識があり、加害者からの不適切な言動がエネルギーを枯渇させ、パフォーマンスを低下させている実態が浮かび上がります。(スライド9)
組織全体への波及効果:潜在的な離職リスク
ハラスメントの影響は当事者だけに留まりません。同僚への被害を目撃・見聞きしている「目撃層(23.6%)」についても、以下のような深刻な波及効果が確認されています。(スライド10・11)
・隠れた離職コスト
目撃層においても、休日中に転職サイトへの登録や求人検索を行う割合が顕著に高まっており、組織への帰属意識が静かに崩壊しています。
・疲労感の伝播
同僚の被害を認知している人の38.7%が強い疲れを感じており、職場全体の心理的リソースを削ぎ落としています。
データが示すこの「能力不足感」は、個人の資質の問題ではなく、不適切な職場環境が構築した「負の成果」なのです。
自己効力感の喪失と「虐待的監督」
なぜハラスメントによって「能力不足」という錯覚が生じるのでしょうか。そこには「虐待的監督(Abusive Supervision)」 [i] と認知の歪み [ii] が深く関わっています。
自己効力感の低下と破壊的リーダーシップ
人間が能力を発揮するには、「自分にはその遂行能力がある」という自己効力感(Self-efficacy)が不可欠と言われています。しかし、行為者の多くは「不安定な自尊心」を抱えていることが指摘されており、この場合自身の優越性を保つために「支配的な言動」を選択しがちです。こうした「破壊的リーダーシップ」にさらされた従業員は、否定的な関わりが繰り返されることで、個人の潜在能力を解放するどころか、自らその扉を閉ざしてしまう傾向があることが、これまでの多くの組織開発・研修の現場でも散見されます。
インポスター症候群との関連
また、自分の成功を過小評価する「インポスター症候群」 [iii] の影響も見逃せません。近年の研究によれば、この状態を経験している個人は、うつ症状を発症する確率が3.49倍、不安症状が2.86倍高いという結果が出ています。(2025年7月国際学術ジャーナル(PubMed / PMC(米国国立医学図書館)等に収録)〜504名の学生を対象とした階層無作為抽出による調査〜)
ハラスメントによって「自分は無能だ」というラベルを貼られた個人は、このインポスター感情を強め、メンタルヘルスの悪化という悪循環に陥ります。ハラスメントは、実質的な「能力不足」の状態を、心理的な側面から意図的に作り出しているのです。
「ポジティブハラスメント」の危険性
〜強制された前向きさが生む二次被害〜
職場改善の際、安易な「善意の激励」が逆効果になる場合があります。これが「ポジティブハラスメント(ポジハラ)」、心理学的には「トキシック・ポジティビティ(有害なポジティブさ)」と呼ばれる現象です。
Binns(2023)の研究によれば、この現象の本質は「コントロール」と「ポジティビティ」の融合にあります。相手の感情を無視し、常にポジティブであることを強要した瞬間に、それは強制あるいは暴力へと変わります。感情を抑圧しようとする試みは、膨大な「認知資源」を消耗させ、集中力や記憶力の低下を招くことが実証されています(Gross & Levenson, 1997)。
・感情の扱い
─健全なポジティブ思考: ネガティブな感情も受け入れる
─ポジハラ: ネガティブを否定・抑圧する
・対話の姿勢
─健全なポジティブ思考: 相手の気持ちに共感する
─ポジハラ: 前向きさを強制・コントロールする
・問題解決
─健全なポジティブ思考: 現実的な解決策を共に考える
─ポジハラ: 相手の状況を軽視し、根性論を説く
・心理的影響
─健全なポジティブ思考: 安心感と信頼の構築
─ポジハラ: 罪悪感の増大・自己肯定感の低下
回復の鍵はセルフ・コンパッション
こうした被害に対する保護因子として注目されるのが「セルフ・コンパッション(自分への思いやり)」です。日本でも、多く書籍化されていて、ワークシート形式の書籍もあります。
1.自分への優しさ: 自己批判ではなく自分を労わる。
2.共通の人間性: 苦しみは人間共通の体験だと理解する。
3.マインドフルネス: 感情を客観的に受け入れる。
この3要素を育むことが、押し付けられたポジティブさから身を守る盾となります。
組織的な取り組みとしての「コーチング的関わり」
認知の歪みを正し、本来の能力を取り戻させるための戦略的ツールとして挙げられるのが「コーチング」だと思います。人事院の奥田(2025)によるレポートでも、その有用性が強調されています。
支配から支援へ
ハラスメント加害者は、組織内でのエネルギーレベルが高く、個人として高い営業成績や成果を出しているケースが少なくありません。そのため、その仕事に対する活力を削ぐことなく、不適切な振る舞い(ハラスメント行動)だけを是正していく必要があります。これを実現するための戦略的アプローチとして、「未来の行動変容のためのコーチング」と「過去のパフォーマンスに対する人事考課(評価)」を明確に分離した介入が不可欠である、というのがわたしの見解です。
また、加害者の自発的な気づきを促し、行動を改善させていくためには、個人の変化のペースに合わせた「段階的なアプローチ」も有効です。実際に、こうした適切なハラスメント対策が講じられている職場では、従業員の「回復力」が79.1%、「成長実感」が62.8%と、対策が不十分な職場に比べて顕著に高まることが調査データ(スライド11・13)でも示されています。これは、ハラスメント対策が単なるトラブル処理のコストではなく、従業員のエンゲージメントを高め、確実なROI(投資対効果)を生むための「戦略的投資」であることを証明している、と考えて良いでしょう。
能力を「奪う」組織から「引き出す」組織へ
ハラスメントによって生じる「能力不足」という感覚は、個人の資質の問題ではなく、組織の構造的欠陥が生み出した「錯覚」と捉えるべきではないでしょうか。従業員が「自分には無理だ」と諦めてしまう背景には、認知を歪め、自己効力感を削ぎ落とす「虐待的監督[i]」が潜んでいる可能性を私たちは認識すべきです。
私たちが目指すべきは、強硬な指導で人を操作する組織ではなく、従業員一人ひとりの尊厳を大切にし、心理的安全性を確保する「組織公正(Organizational Justice)[ⅳ]」の実現した職場です。ハラスメントによる「能力不足という錯覚」や職場の不信感を解消し、従業員が本来持っている力を発揮できる環境を整えること。
人事は今、ハラスメントを「トラブル対応」から、企業の競争力を左右する「人的資本リスク管理」の最優先事項へと昇華させるべき局面に立っています。能力を「奪う」組織から「引き出す」組織への転換こそが、品性ある組織への第一歩となります。
当協会の調査資料のダウンロードはこちらから
https://share.hsforms.com/1uuO7AneUQqW2yRFEvqsFrQsxma3
出典・参考文献
- 奥田恵美(2025)「パワー・ハラスメント防止対策としてのコーチング導入について -パワー・ハラスメントが発生するメカニズムから公務職場におけるコーチングの有用性を探る-」人事院
- 一般社団法人日本ハラスメントリスク管理協会(2026)「職場のハラスメントと個人・組織の諸相関調査(ハラスメント実態自主調査202601)」
- Behavioral Sciences (Basel), 15(7), 461. (2025). /(参照:CareNet Academia配信記事)
- Binns, A. (2023). Toxic Positivity in the Workplace: The Cost of Forced Optimism.(※トキシック・ポジティビティに関する研究)
- GGross, J. J., & Levenson, R. W. (1997). Hiding feelings: The acute effects of inhibiting negative and positive emotion. Journal of Personality and Social Psychology, 72(1), 95–103.(※感情抑制の科学的影響に関する研究)
[ⅰ] 虐待的監督(Abusive Supervision)
上司が部下に対して行う、持続的な非言語的・言語的な敵対的振る舞いのこと(身体的接触は除く)。執拗な無視、公の場での叱責、過去のミスの蒸し返しなどが該当します。この破壊的なリーダーシップは、部下の自己効力感を著しく低下させ、主観的な「能力不足感」を抱かせる原因となり得ます。企業の生産性低下や離職率上昇を招く、重大な組織リスクとして近年重視されています。
[ⅱ]認知の歪み
客観的な事実とは異なり、物事を極端にネガティブ、あるいは偏った方法で捉えてしまう思考のパターンのこと。ハラスメントを日常的に受けていると、「すべて自分の能力が足りないせいだ」「周囲も自分を無能だと思っている」といった極端な思考(認知の歪み)に陥りやすくなります。これにより、本来持っている実力やスキルを正しく認識・発揮できなくなり、主観的な「能力不足の錯覚」が生じやすくなります。
[ⅲ] インポスター症候群
自分の実力や成果を過小評価し、「自分は周囲を騙しているペテン師(インポスター)だ」「いつか無能さが露呈する」と不安に駆られる心理傾向のこと。ハラスメントによって「無能」のラベルを貼られるとこの感情が増幅され、うつや不安症状のリスクを跳ね上げ、メンタルヘルスを悪化させる要因となり得ます。
[ⅳ] 組織公正(Organizational Justice)
組織内の手続きや評価、待遇、人間関係の扱いが「公正(フェア)であるか」という従業員の主観的な認識のこと。これが確保された職場では、本来の能力を発揮しやすくなると考えられています。
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【執筆者】
相談員養成講座 特任講師 平澤 知穂
【プロフィール】
2000年にコーチとして独⽴、研修講師として活動開始。 2つの⼤学で通算14年間⼤学⾮常勤講師を務める。 企業や⾃治体、医療法⼈などにおいてハラスメント防⽌の活動を⾏い、2022年には個⼈のハラスメント年間相談対応が 600件を超えた。厚⽣労働省の設置するハラスメント相談窓⼝や、法務省の刑事施設における矯正教育関連プログラムの ファシリテーターを経験している。
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